人生で2度目の金沢に行った。
お寿司とおでんと日本酒とラーメンと海鮮丼とラーメンとお麩を食べた。楽しかった。
彼氏と一緒にいるときに撮る写真は、全然静かじゃなく、きれいでもなく、つねに人がいて、騒がしく、寂しくない。
一人で歩くのとはまったく違った景色を見ているのだと、iPhoneを見返してたまに思う。
「仲が良い」ってなんだろう?と、疑問に思うことがある。
一般的には、「共有済みの前提条件が増えていって、会話をショートカットできる」ことを「仲が良い」と呼べそうだ。理解はしている。
だけど、長く付き合っている友人、会社で働いている同僚、毎日連絡を取っている恋人、それぞれ「仲の良さ」は異なっているはずなのに、すべてが同じ距離に思える瞬間がある。
この人は仲良し、この人はそうじゃない、という区別がうまくつけられず、初めて会う人にも、100回会った人にも、同じ心持ちで接してしまう日がある。
昔にマッチングアプリを利用していた頃、「初対面でこんなに仲良くなったのは初めて」と言っていただいたことが何度かあった。
理由はなんとなく推察できる。当時の私は早押しクイズにハマっていて、生活する上ではまったく必要ない豆知識を大量に蓄えていた。知識を元に相手のデータを適切に引き出すと、相手は私のことを「共通の話題がたくさんある人」「いろんな話ができる人」と認識してくれる。
だけど、これを「仲良くなった」と呼ぶのは変だろう。もともと互いの持っていたデータベースに一致する部分が多かっただけ、というのが正しそうだ。
つまり、最初に話していた「共有済みの前提条件が増えていって、会話をショートカットできる」という定義について、要となるのは「増えていって」の部分かも。
長い時間を共有して、いろいろな出来事を一緒に経験して、共通の語彙を増やしていく。その過程こそが「仲良くなる」の本質?
こんなことを考えるから、人との距離感を見失うのかもしれない。自然な距離で、自然なコミュニケーションを取っていきたいな。
新卒で入った会社がつぶれたのが、去年の10月。その後2ヶ月ほどフリーターとして過ごし、12月の半ば、転職先に入社した。
で、その会社を3ヶ月で辞めた。肌に合わないが1年くらいはがんばろう、と去年の私は綴っていたが、そんなに我慢できなかったね。
3ヶ月ぶり2度目の無職。
辞めた翌日真っ青な空を見て、そうそう、こういう瞬間に死にたいんだよ!(嫌な仕事をしている、嫌な自分のままではなくて)と思ったのを覚えている。
退職後の身の振り方については何も考えておらず、しばし途方に暮れた。
普通自動車の合宿免許とデザインスクールで迷った結果、デザインを学ぶことを決めた。
スクールで受ける授業の全部が楽しかった。
デザインを学ぶことを「許された」感覚があった。自分で自分に課していた枷が外れた。
デザインスクールに通いながら、印刷会社でアルバイトもしていた。
社会人を経てつとめる「アルバイト」という責任の無い立場はとてもラクで、学生時代にこの感覚を知っていたかったな。
3ヶ月のスクール通いを経て、無事にデザイナーになった。一般大卒、職種未経験、前職は試用期間中に退職と厳しい条件を自覚していたので、たくさん選考を受けた。
もう転職して4ヶ月。お絵描きソフトを触っているだけでお給料が手元に振り込まれること、いまだに信じられない。
1年前の突然の解雇にスタートして、働いたり辞めたり勉強したり遊んだり、たくさんのことを経験できた、あっという間の2023年だった。
逃げることを許されて、やりたいことだけやっている、恵まれた人生だと思う。
さまざまなことが一段落したから、来年は自ら狙って変化を起こさないと、今年に勝つことはできなそう。
目まぐるしい一年にしたい。
みなとみらいで透明の観覧車に乗ってきた。
ちょうど日が落ちる時間帯で、ゴンドラがオレンジ色になる。
地上がよく見えて嬉しかった。
今週はぼんやりと過ごした。現状を「がんばっている」と認識しそうな自分に気付いたから、意識をニュートラルにもどそうとした。
こういうとき、知らない街を歩くと脳がリセットされて、わたしがわたしの人生を好き好んで生きていることを思い出せる気がする。
知らない土地に安堵するのは無知ゆえの勝手な行為だと、わかっているから許されたい。
良い「とまれ」に出会った。
良い本屋にも出会えた。
心の調子と体の調子は別物だと理解してから、自分の御し方がとても上手くなった。体はいくら疲れたってかまわないが、心は疲れさせちゃいけないな。
ライターの小野民さんが、自身の仕事を「人の話を聞きながら、その人のよいところを見つけて、うまく言葉にして差し出すという作業」と言っていて、あ、これは黄金律だ。と思った。
どんな仕事にも通じることで、あえて「仕事」の領域に限る必要もない。「よいところを見つけて、差し出す」を守れたら、人は人を幸せにできる。何の持ち物が無くとも実現可能な、元手の要らない価値創造。
いや、嘘をついた。「よいところ」を見つける目の精度だったり、「差し出す」手段の質、相手と自分の関係性とか、本当は考慮すべき「元手」の値がいろいろある。そして、いろいろなことを考えだすと途端に現実的な話になる。
自分が他者に提供できる「差し出す」は何だろう。どの「差し出す」を極めたら、私は、私の創造する価値を最大化できるんだろう。
自己啓発めいたしょうもない論へと展開しそうになる。そもそも「幸せ=価値」は自明ではないし、人間に価値創造の義務も無い。
得をしないことは損ではないし、幸福でないことは不幸ではない。
生きることは自分にかかった余計な呪いをひとつひとつ解いていく過程。そう思っているはずなのに、気が付くと不要な呪いを新たにインストールしている。
完全を体現できなくても、理想は忘れずにいたい。綺麗事が好きだ。
たてもの園に行くのは2回目。前回訪れたのはコロナ禍全盛期の2021年初夏で、立ち入れなかった建物もいくつかあったように記憶している。
少しだけ曇り空。絶好の撮影日和とはいかなかったが、ときおり雲が切れて差し込む光がかえって美しいとも思った。
念願の前川國男邸に足を踏み入れる。
イサムノグチのAkari。高い天井からまっすぐ伸びるコードが格好良い。
ここは書斎。晴れた日、障子越しにやわらかい光を浴びて仕事をする姿を想像した。
寝室のワークランプにはIKEAのテルティアルの趣がある(因果は逆かもしれない)。
去り際、外から中を眺める景色も良かった。どこで何を切り取っても美しい空間。叶うならいつかこんな家に住みたい。
ほかの建物もゆっくり巡った。これはデ・ラランデ邸(声に出して読むと楽しい)の2階。1階部分は現在カフェとして利用されている。
階段の明かりは窓から採られていて、湿度のある光が足下をぼうっと照らす。
住んでみたくなるキッチンや、昔の東京を走っていた電車。撮りたい景色がたくさんある。すれ違う人の半分近くはカメラを持っていて、おっ仲間ですね、と思いながら歩いた。
帰り道、公園で春の写真を撮った。
シャッターチャンスを狙っていると虫も平気になってくる。長く座り込んでいると自然と一体化したのか、腕にてんとう虫がのぼったりして、「写真を撮る」ってこういうことか?と学んだような気がした。